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遊戯王ZEXAL 考察「キャラクターコンセプト①」

 あまりに長すぎて出しそびれた『キャラクターコンセプト』と『三勇士』のキャラ達の考察。

勿体ないので、とりあえず完成している『遊馬編』だけ載せようとしてます。
でもぶっちゃける。私の遊馬考察日々変わっているので、これ書いた時と今じゃ変わっている部分が多少なりともあると思います。

【前書】

 私、『手堅くまとまった綺麗な作品より、欠点があっても尖った魅力がある作品』が大好きです。
例により私の中でゼアルも後者のカテゴリーになります。なので、欠点も魅力もいっぱい言えるよ! うん。ゼアルは遊戯王の歴代で私の好みにクリーンヒットした一番好きな作品でした。それは歴代より優れた作品だった訳ではなく、私が作品に対して惹かれた要素が最初から最後まで一貫して描かれていたからです。

【キャラクターコンセプト】

 ゼアルは、1期も2期も終盤細かい所をやっつけに片づける傾向があるし、矛盾点も辻褄合わせももう少し頑張ってくれないかなーと思うところもあるので、ゼアルに文句言う人の気持ちは分かります。(でも、原作もない上に3年間も続き、正確に何話で終わるかとか作り手も分かったものじゃない、色んな人が関わって作られる販促アニメで、そんな伏線全部回収とかやりたいことが全部出来るわけないって、最初から思っていたから正直解説してない設定そこまで気にならないんですよね)

 まぁともかく。私が、その辺あまり気にならないでスルー出来ちゃうのは、ゼアルは、『作品のテーマ』が最初から最後まできちんと決められており、それを一貫して迷いなく描いてくれたからなんですよね。

 つまり作り手の伝えたいことが余すことなくそそがれていた、生まれてきた意味のある作品として完成してくれたんです。そして視聴者――少なくとも私は、そのメッセージに勇気をもらったし、ターゲットの子供たちに伝えるに相応しいメッセージだと思ったので、ゼアルはとても素敵なアニメだったと思いました。

 そして何が素晴らしかったと言えば、主要キャラの『キャラクターコンセプト』が、登場した時から最後までテーマと同じく一貫していたところです。

 この『キャラクターコンセプト』というのは、キャラの性格や生い立ちや言動ではなく、作品内においてそのキャラクターがどのような役割を担う為に生まれてきたキャラクターであるか、ということです。
ここがブレないということは、キャラクターは作品のテーマに合わせて生まれ、その役割を全うしたということになります。
しかも登場した時からだよ! 初期、遊星のキャラ違うっぷり考えてみたら驚異的ですよ!(まぁキャラコンセプトは性格ではなく役割の話ですが)

 そういうことをぐだぐだ書いて、校正済んだのが『遊馬』だけだったので、下に載せておきます。(まぁ、遊馬は見たまんまだから特にいうことないんですけどね。おまけが長い)



「九十九遊馬」(諦めない。捨てない。未来は可能性の宝庫)

 みなさんご存知の通り作品のテーマである「諦めない心」を象徴した作品の主人公。
「かっとびんぐ」には色んな意味が込められていました。「諦めずに挑戦すること」「そこには無限の可能性があること」「間違えても何度だってやりなおせること」立ち止まってちゃ先には進めない。「何も決まっていないから自らの手で生み出せる『未来』」を象徴したキャラクターでした。

 遊馬のキャラクターコンセプトがブレなかったのは、視聴者が見た通りです。仲間たちが散っても、ベクター(真月)に裏切られても、敵対するシャーク(友人)と世界を天秤にかけても、大切な物を切り捨てたりはしなかった。
それも温い展開じゃないですよ。それでも徹底した自分の生きる道の信じる心。思想を貫く姿勢。
ゼアルは、遊馬という主人公をブレずに描き切っただけで、ある程度評価されて良い偉業だと思います。

 現実は確かに諦めなきゃいけないこともあるさ。でも、子供のころから夢も希望限界があるなんて教えて良い訳がないです。夕方アニメとして、悟り世代の子供たちにここまで「諦めないこと」を強く訴え続けたことは素晴らしいことだったと思います。

おまけ「九十九遊馬というキャラクターの考察……というか解説」

 ちなみに、遊馬が『聖人すぎて人間味ない』『ここまで折れないと異常』と言われてると、違和感を覚えます。
なぜかといえば、そもそも遊馬は自分の為に生きているからです。だって本人も『一番大切なものは自分自身』って言ってたじゃないですか。遊馬が自分の命をかけて誰かを助けようとしても、それは自己犠牲ではなく自分が生きるためだからです。死なせるというのは=自分の心を死なせること=自分の思想を曲げることを意味します。

「諦めたら人の心は死んじゃうんだよ」

と言った遊馬は自分の心が死ぬことが、一番怖いのです。
それは「かっとびんぐ」(諦めずに挑戦しつづけること)を教えて貰う前の遊馬が、自分のことを何も持ってない空っぽの存在だと思っているからです。(参照:19話の幼少期、ⅢVS戦の僕遊馬)
物語開始時点で、デュエルに一度も勝てなかった遊馬は、それでも自分の未来を信じて「かっとびんぐ」を諦めませんでした。
最初は何もなかったからこそ、ただ信じるしか道はありませんでした。でも「かっとびんぐ」で、友達ができました。多くの人の心に勇気を与えることが出来ました。

「負けることで失うことがあることを知った」

 WDC前の遊馬の言葉ですね。ここで何も持ってないから失うことがなかった遊馬が、アストラと出会い、アストラルや仲間を得て、勝つことで多くの対戦相手を呼び、その事情に深く関わり多くの経験をしました。遊馬が空っぽだった自分の中に『成長』『友情』『実績に裏打ちされた信念』を手に入れ、それ故に失うことの恐怖を予感するようになるのです。

 だけどこの時はまだ、自分の『自信』にはなっていません。まだ「かっとびんぐ」は、空っぽの自分をなんとか保つためのツールから脱却できていません。

 アストラルと一緒に多くのことをやり遂げましたが、それは遊馬にとってアストラルの力か、アストラルが前提の自分たちの力であり、自分だけの力ではないと認識しているからです。
何話か忘れましたが「仲間ができたのは全部アストラルのおかげだ」って遊馬が言っていてびっくりした記憶があります。どう考えても友人たちは、遊馬の言葉に心動かされて仲間になったのに、遊馬にはそんな自覚はないのです。

 この問題が噴き出すのが、ゼアルⅡです。一話から、遊馬はアストラルを失うことに恐怖し、アストラルとすれ違い、サルガッソの戦いで二人の関係を一旦粉々にされます。 手に入れたことによる失うことの恐怖。これは、遊馬の両親が失踪し『失った』という生い立ちにも原因がありそうですね。

――余談ですが、サルガッソの戦いでは、まずアストラルの自立が描かれています。
記憶喪失だったアストラルは、遊馬と同じ空っぽの状態でスタートするからです。(この辺りは、最終回で遊馬とアストラルが元々一つで、分かれたが故にそれぞれ欠けた個体として存在することになったと分かります。また、一つに戻るのではなく、分かれて欠けてしまった部分は、新たに別個体の人間として手に入れていく成長物語だったと言うのも最終回で分かります)

 遊馬を通してしか世界と関われなかったアストラルは、それ故に自我の芽生えはスローでしたし、立場上、遊馬の存在は絶対条件でした。だからアストラルから遊馬への信頼は受動的な行為でした。本当に信頼してたけど、切欠として信じるしかないから信じていた節があります。しかしサルガッソ戦で、「信じる」という行為には自分の責任が伴うことを知り、アストラルは絶対的ではない遊馬に対して、自発的に信じることを選びました。これ以降のアストラルが、遊馬に親のような態度をとり、別れを仄めかすようになる(遺跡編のあたり)のは、遊馬と自分が別々の人間だと改めて知りアストラルが精神的に自立を果たしたからと思われます。

 で、ブラックミスト戦で、アストラルを失ってから最終回までが、遊馬の自立の物語になっています。

アストラルを失った遊馬が、悲惨な精神状態に陥り、「アストラルのいないお前なんてゴミデュエリストだ」と言われても何も言い返せない様子から、アストラルのいない遊馬が自分に自信を持つことが出来ないことがようやく発覚します。ここまで来ると、遊馬がアストラルにあれほど執着していたのは、アストラルが自信の源であり、アストラルを失うことで自分がまた空っぽになってしまうことを恐れていたからだと理解できるのです。

 ですがアストラルのいない遊馬を、仲間たちが支えようとしてくれました。Ⅲというかつて敵対し、遊馬に救われた者が今度は遊馬を助けたいと言ってくれました。
アストラルを失っても遊馬が得たものは全て失われる訳ではないことを知り、遊馬は前に進むことができます。でもまだ自信にはならないのです。アストラルという遊馬の自信の象徴を遊馬が救うことでようやく遊馬とアストラルは対等な立場になり、遊馬の本当の自信になるのです。

 アストラルを救った後の遊馬は、今度は信念を問われ続けることになります。
誰も犠牲にしたくない。七皇と戦わず救いたいと思うのですが、その望みは無残に終わります。 でも遊馬は折れなかった。なぜかというと、遊馬が「かっとびんぐ」で救った人達が、その思想に未来を託して散っていったからです。その道をそのまま進めと後押ししてくれたからです。そうやって、『借り物』の言葉は多くの人間の思いを宿し『本物』になったのです。沢山の出会いが遊馬の中身を作って、一番大事な自分自身の魂(思想)が生まれました。

 遊馬の本質は普通のありふれた人間で、『諦めない』ことは父が教えてくれた理想の世界への切符だった。
けれども対シャーク(ナッシュ)のラストバトルを見て、『九十九遊馬』という人間にとって『諦めない』ことは何かの手段ではない本物の自分になったんだなと思いました。

 シャーク戦が卒業試験なら、アストラル戦は卒業式(けじめ)みたいなものでしたね。だから、アストラルが物理的にすぐ会えるのはおかしくないです。あれは、精神的なお別れです。№00が青く光り(アストラル界の力)、№99が赤く光る(カオスの力)のは、もうバラバラでも大丈夫。欠けた力は自分の力で手に入れたって意味なんだろうな。

 こう書いたけど、遊馬が自分を信じ続けていたのは、天性の気性だったなとも思います。
遊馬って、たぶん僕遊馬の時でも自分以外の誰かになりたい。という『自分』に対する責任放棄だけは思うことすらなかったように思えます。その部分に関しては、凄い人だったな、と本当に思う。

 あと、カイト死んだときに折れずに立ち直るの早いのはおかしいって感想みて「えっ!? その解釈こそおかしい!」と思ったので、そこに関しては強く反論したいので、カイトの項目で語ろうと思います。

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Re: 感動しました

>わんたん様

コメントありがとうございます。
ゼアルは、魅力的なところがいっぱいある作品ですし、一本筋の通ったアニメだったと思います。
アンチの多さは、完結済みで一番新しい作品なのも原因だと思います。
記憶を探るとリアルタイムでは各シリーズそれぞれ叩かれていたように思えます。
また、何年も経てばそういった人の声は聞こえにくくなり、好きな人の声の方が大きくなるんじゃないかと思います。
私は遊戯王アニメで一番好きな作品なので、私と同じように好きな人は好きと堂々としていて良いと思います!

感動しました

今更になってゼアルにハマった人間です。ストーリーやキャラクターに惹かれ好きになったものの、アンチの多い作品のようですし、いまいちその「好き」に明確な自信がありませんでした。ですが、この記事を読んで、ああ、こういうところに惹かれ、好きになったのだと再確認し自信が持てました。シンプルながらも入り組んだいい作品だと思います。もっと早くにであいたかった。ありがとうございました。
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